【特集】龍の伝人 LEGACY OF DRAGON

ブルース・リー最後のプライベートスチューデント テッド・ウォン インタビュー

四人目のプライベートスチューデントとして、また同じ香港の出身であり、ともに広東語で語り合う親しい友人として、 約7年間にわたってブルース・リーとともに過ごしたテッド・ウォン氏が語るブルース・リーとジークンドー 『ラスト・ステージ』。

革命家 ブルース・リー

――では、先ずはプロフィールからお願いします。

ウォン はい。私は香港の生まれで1953年にアメリカに移住しました。現在62歳です。アルミニウムを扱う会社で飛行機の部材などを作っていましたが、今は退職しています。フルタイムでは働いていませんので、ほとんどの時間をブルース・リーの武術を伝えるために使っています。

――武術歴は?

ウォン 私が学んだ武術はジークンドーだけです。

――どのようなきっかけでジークンドーを始められたのですか?

ウォン 私はブルース・リーがスクール(道場)を開いた1967年2月に彼と初めて会いました。感慨深いものがありました。私もグリーン・ホーネットを見ていましたからね。番組での彼は印象的でした。私はよく武術の登場する映画を見ていたのですが、彼のものは一味違っていましたね。

――どうやってオープンスクールのことを知ったのですか?

ウォン 実は友人が教えてくれたのです。オープンスクールが開かれる前に。1966年のいつだったかな・・・・・・。

――そのご友人は中国の方ですか?

ウォン 中国人です。当時ロサンゼルスに住んでいました。

――テレビの中のブルース・リーと実際の彼の具体的な違いは?

ウォン テレビでの彼は武術が使える俳優にすぎません。そこで使っている技は派手で、人に見せるためのものでした。実際の彼の武術は非常にシンプルです。 また、彼の武術は基本的にクラシカルなものではなく、中国武術の伝統に従っていませんでした。彼は洋の東西を問わず色々なものを取り入れ、組み合わせて・・・・・・そう、東洋と西洋の哲学を自分の武術に生かそうとしていました。私がそう思うのは、彼がボクシングやフェンシングから多くのアイデアを得ているからです。武術を考えるときに科学的であるかどうかを重要視したことが彼の特徴でしょう。彼は物理学をよく研究し、また人間工学で人間の身体をより上手く動かすにはどうすればいいかを研究していました。ですから彼の理論の多くはこういった研究から得られたものです。色々なスポーツからアイデアを得て、武術に応用したのです。

――すると、ウォン先生ご自身が習い始めてからも、ブルース自身は進化し続けていたのですね?

ウォン そうです。彼はずっと進化し続けていました。最初のころはまだ伝統的な中国武術のやり方を残していました。思うに彼はその因襲を破り、色々なものを取り入れていくことによって急速に実力を伸ばしていったのです。普通、中国武術を学ぶときは、伝統的なやり方に従うことに多大な労力を払います。ブルース・リーは伝統に対して抗う反逆者でした。

――では、ジークンドーは中国武術を否定してできあがったものですか?

ウォン 私はそう思いますね。私が彼を反逆者と呼んだ所以です。彼は中国武術の本流に逆らったのですから。その点では沢山の批判を受けました。それでも彼は自分の考えを曲げなかったのです。

――思想的にも中国の伝統的な文化を否定したのでしょうか?それとも武術的な部分だけを否定したのでしょうか?

ウォン 中国文化全てを否定したわけではないと思います。しかし彼は中国の文化や哲学を変えることを研究していました。とりわけ武術に於いては、常に進化し続けるものであるべきだと考えていましたから。彼は自分の考えに忠実に従ったのです。

プライベートスチューデント

――ところでウォン先生も入門当時は唯の一生徒だったと思いますが、それからどのような経緯でブルース・リーのプライベートスチューデントになったのですか?

ウォン 実は、最初にスクールが開かれたとき一般公開されていませんでした。ブルース・リーの知人だけが招待されたのです。私はたまたま友人がブルース・リーの知り合いでしたから、本当に運に恵まれたのですね。開校の日、私たちはブルース・リーの所へ行って彼の講義を聞きました。初日でしたから、2、3時間、たしか生徒みんなの前で彼は説明とデモンストレーションをしました。

――ブルース・リーは自分のスクールについて、どのようなものであると説明したのですか?

ウォン 彼はデモンストレーションを交えて自分の行っている武術と伝統的な武術の違いを説明しました。それから申込用紙が配られ、私も一枚受け取って必要事項を記入して授業料を払いました。授業料は20ドルでした。彼は「授業は来週の火曜日だ」と言いました。その日は土曜でしたから、次の火曜日が最初の授業でした。

その授業に私は出席したのですが、そこで初めてブルース・リーは私を直接招待した人間でないことに気がつきました。しかし私が中国人だったので彼は「どこの出身だ?」と聞いてきました。それで私が「香港です」と答えると、私たちは広東語で話し始め、結局「よし、君はこの教室に通っていいよ」と言ってくれたのです。そうやって全てが始まりました。4月になると彼は自分の家に私を招待してくれました。スクールが始まって2ヵ月後ですね。私にはそれまで武術の経験がまるでありませんでしたから、彼はちょっと私を気の毒に思っていたようです。彼の教室で。私はお世辞にもいい成績を収めているとは言えませんでしたから。

――うまくいってなかった?

ウォン 私は専門家じゃありませんでしたからね。それで彼は私を家に呼んで、個人教授をしてくれたんですね。いろいろな練習法を教えてくれました。そうして彼のプライベートスチューデントになり、レギュラークラスと彼の家との両方で教えてもらうようになったのです。それは1973年に彼が亡くなるまで続きました。

――誰もが彼の家に招かれるわけではないですよね?

ウォン 彼は一度に2、3人をクラスから選んで、毎週水曜日に家で教えてましたね。セミ・プライベート・クラスとでも言いますか、レギュラークラスから小グループを作って教えるわけです。2、3ヵ月しか続きませんでしたけどね。私はたいてい土・日曜、ときには金曜日に習っていました。プライベートスチューデントは皆マンツーマンで習っていたと思います。ステイーブ・マックイーンやチャック・ノリス、ジェームズ・コバーンとかが習ったようにね。当時のスクールとプライベートスクールの違いは、スクールではほとんど詠春拳などの中国武術(功夫)を教えていました。一方プライベートレッスンでは、主に彼がそのとき研究していたものを教えていました。彼がジークンドーと呼んでいたものです。ですから内容的にかなり違っていたわけです。

――プライベートスチューデントはどんな基準で選ばれていたと思いますか?

ウォン それについては、実は彼に直接聞いてみたことがあります。すると彼は私にこう言ったんです、「君がナイスガイだからだ」(笑)。それに「可能性も秘めてるしね」とも言っていました。まあ、私はとても練習熱心ではありましたから。私は武術や格闘技の専門家ではありませんでしたが、他の連中は皆ブラックベルトですよ。ボクシングのチャンピオンになった人もいましたし、そんな環境で私が一所懸命に周りについていこうとしているのを見て、ブルース・リーは私をプライベートスチューデントにしてくれたのだと思います。

――ところで4人のプライベートスチューデントは、お互いに面識はあったんですか?

ウォン いや、まったくありませんでした。

――では、お互いにブルース・リーの家でどんな練習をしていたかはわからないわけですね。

ウォン プライベートでは一度に一人しか呼ばれませんでしたからね。私はただのプライベートスチューデントではなく、親しい友人として家族ぐるみの付き合いをしていました。それは彼が亡くなるその日まで続きましたし、彼が亡くなってからも、彼の家族やリンダ夫人とは家族ぐるみの付き合いです。

――ウォン先生自身はプライベートスチューデントとして、ブルースの家で何をどのように学びましたか?

ウォン 前にも言った通り、私が習ったのは主に彼が当時研究していたものです。技を如何に向上させるか、スピードとパワーをつける方法、技の応用、スパーリングも沢山やりました。彼はよく技を試して、私に「どんな感じがする?」「パワーはどんな感じで伝わってる?」とか聞いていました。彼は新しい技をどんどん付け加えていくのではなく、今やっている技の新しいトレーニング法を研究していたのです。また、格闘技術以外のこともずいぶん習いました。彼は様々な練習法を研究していて、それをサプリメンタルトレーニングと呼んでいました。栄養学をトレーニングに生かそうとしていたようです。もし私がプライベートスチューデントでなかったら。これらのことの一部は学ぶことができなかったでしょう。トレーニング以外にも、彼が今現在何をやろうとしているのかが理解できました。ウェイトトレーニングの際、目的の筋肉を鍛えるにはどうすればいいのか。それを知るには人体の構造などをよく知らねばなりません。だから彼は解剖学も研究していましたね。それが彼のやり方でした。 彼が亡くなってからは私はむしろ後進の指導に当たる側ですが、今でも彼にはさまざまなものを学んでいます。彼の哲学を通して彼が残したものの背後にある原理原則を読み取るのです。私にとって、これはとても重要なことです。そうやって武術の腕も磨いてきたのです。彼が自分の哲学をどうやって技に生かしたかを考え抜くのです。彼は原理原則というものを残してくれました。トレーニングもそうです。フィジカルなものはもちろん、メンタルなものを学びました。私は彼が残してくれたものを通して、今でも学び続けているのです。

――そういったメンタルなものは、一般の練習生たちも学べたのでしょうか?

ウォン もちろんです。幸い今では彼の資料はほとんど公開されています。特にここ数年ですね。ご存じの通りブルース・リーは本当に優れた書き手でしたから、生前書き残したものはリサーチペーパーで6千枚にも上ります。今では12冊の本にまとめられて出版されています。後進の者が彼のことを知りたければ、全てはそこにあるのです。

――当時も資料から学んだのでしょうか?

ウォン いや、スクールでは哲学、原理はあまり教えていませんでした。武術の肉体的な鍛練が主でしたから。実のところ、私が彼の哲学原理を理解できたのは、彼が亡くなってからのことです。私は幸運だったと思います。彼が自分の思想を動きや技にどう生かしていたかを研究すると、自分自身、彼の哲学への理解が深まり、それをどう生かせばよいのかが見えてきます。肉体的なことだけでは成長の度合いもたかが知れています。しかし精神的なことまで解れば、どう理解し、どう向上していけばいいかがわかります。練習法も自ずと見えてきます。

――パブリックスクールではグンフー、プライベートではジークンドーを教えていたということですが、セミプライベートでは何を教えていたのでしょう?

ウォン どうもジュンファン・グンフー(振藩功夫)を少し教えていたようです。詠春拳のチーサオとかですね。よく練習していました。当時、ブルース・リーはチーサオをユニークなものと考えていたようです。見た目も変わっていますし、私たちも当時は知覚能力を磨く方法として学んでいました。あとはクラスで教えていたものをより洗練するための練習をしていました。チーサオはセミブライベートでしかやらなかったようです。

――スクールでは、ブルース・リーは生徒たちに自分を何と呼ばせていたのですか?

ウォン シーフー(師父)です。彼はクラスではシーフーと呼ばせていました。しかし一歩教室を出たら“ブルース”と呼ばせていましたね。

――ウォン先生も彼の家でプライベートレッスンを受けるときは“ブルース”と呼んでいたのですか?

ウォン いいえ。私は常にシーフーと呼んでいました。たった一度だけ“ブルース”と呼んで、本当に後悔しています。

――ブルース・リーは、ウォン先生がプライベートスクールで習った内容を他の生徒に教えないように指示されていましたか?

ウォン いやいや、秘密などではありませんでした。一度も彼から「教えるな」とか「見せるな」と言われたことはありません。思うに彼は、相手との信頼関係を第一に考えていたのです。彼は相手が忠誠心を持っているかどうかを見ていました。彼はいろいろな指導者から学びたがる人を生徒に加えたがりませんでした。彼は私に武術歴がなく、したがって他の指導者に習ったことがないのを知っていましたし、私が他の指導者や武術に鞍替えしたりしないと信じてくれていたのだと思います。私が古参の生徒で、彼がプライベートスチューデントを取りはじめる前からいたということも理由の一つしよう。だから口に出して「ああするな、こうするな」と言われたことはありません。彼は私を信用していてくれたのです。私も彼の本当の気持ちが解っていましたから、彼の死後もずっと自分の友人など少数のプライベートスチューデントにしか教えないようにしてきたのです。大勢の人に教えるようになったのは、ここ数年のことなのです。

比武

――ブルース・リーの武勇伝について私たちは色々と聞いているのですが、先生は実際に見聞きしたことがありますか?

ウォン 聞いたことがあるだけです。香港で映画製作中に挑戦された話は聞いたことはありますが、カリフォルニアでの話は知りません。ワシントンでは一度戦ったようですが。

――どんな話ですか?

ウォン ブルース・リーの弟子だったジェシー・クローバーに聞いた話です。彼はその試合のレフェリーのようなことをしたようです。彼の著書にある話です。ワシントンでスクールを開く前、ブルース・リーはよくデモンストレーションをして回ったのですが、これが反発を招くことがありました。彼のカンフーは疑いの目で見られて、批判の対象になるのが常でした。それで彼は他の武術をやっている男から挑戦されたのです。最初、彼はその挑戦を断ろうとしました。しかし、やらざるを得ない雰囲気になってしまった。彼はもう何度も挑戦を受けていましたし、結局「やろう」ということになったんです。この話はそんなところです。戦いは確か、11秒で終わったはずです。

――11秒ですか……。

ウォン ジェシーの友人の一人が時計係をやっていましたからね(笑)。ボクシングみたいにね。もう一つ、ブルース・リーが私に語ってくれた話があります。65年のことだったと思いますが、カリフォルニアでスクールを開いたときの話です。彼はいろいろな人種の生徒を教えていました。白人、黒人、中国人……。でも他の中国武術家たちは閉鎖的です。中国人にしか教えない。だから彼らはブルース・リーが外国人に武術を教えることが我慢できなかったのです。彼らはブルースに「教えるのをやめろ」と言いました。ブルースは「どうして外国人に教えようとしないのだ」と聞きました。「外国人に、白人に教えたら、連中はそれを中国人に使うかもしれない」と彼らは答えました。ブルースは「いいか、白人は中国人よりも体格がいいから強そうに見える。だが私が武術を教えれば、彼らは武術を通して中国の文化を知って尊敬の念を抱くはずだ」と言いました。結局中国武術の道場主たちはウォン・ジャックマンという若い武術師範を選んでブルース・リーに挑戦してきました。ブルースはこれを受け、勝利を収めました。二人の戦いは30秒かかりましたが、私が思うにこの一戦こそがブルース・リーの武術の大きなターニングポイントでした。この30秒の戦いで彼は大変疲労してしまったんですね。30秒というと非常に短いようですが、彼にとっては時間がかかり過ぎたのです。彼はこのときから自分がそれまで学んできた武術がさほど効果的ではないと考えるようになりました。ここから、後のジークンドーが生まれたのだと私は思います。

截拳道~進化し続ける武術~

――ブルース・リーは練習中の事故で腰を傷めていますが、そのときの様子を教えてください。

ウォン 彼は朝、グッドモーニングエクササイズをしていて腰を傷めたのです。準備運動不足だったようです。彼は6ヵ月ベッドから起き上がれませんでした。

――そのときブルース・リーは落ち込んでいましたか?

ウォン 彼は元気でしたよ! 彼は寝ている間にも実に多くのことをやり遂げました。読書をし、文章を書き、あるいはエクササイズをしたり考えを深めたり。ベッドでも一方の手でトレーニングをしながらもう片方の手で本を読んでいることもありました。精神活動もしっかりしていたのですね。彼は文章も書きはじめて、これが『截拳道への道』(“Tao of Jeet Kune Do”)の大元になりました。

――しかし、ジークンドーも既に誕生してから30年の歴史があります。ブルース・リーの考え方として常に進化することを重視し、古い時代に完成したまま変化しない詠春拳などに否定的だったということですが、ジークンドー自体も変化し続けてきたのでしょうか?

ウォン まず「変化」をどう定義するかが問題です。服に例えれば、今着ている服をただ捨てるのではなく、替わりに新しいものを買い、身体に馴染むまで着る。これは変化です。 でもブルース・リーの変化を間違って理解している人達は、気に入らなくなった服を簡単に捨てて新しいものを買い、また2ヵ月くらいで買い換えるようなことをしています。スタイルを変えるだけ。これは変化ではありません。自分の持っているものを向上させることが大事です。何かを付け加えることではない。コーヒーにたとえてみましょう。コーヒーをオレンジジュースに替えたとしたらどうでしよう? コーヒーの味を向上させてもコーヒーはコーヒーです。一般にはまったく異なる技術、異なるアイデアを取り入れることが変化だと思われています。でもそんなものは変化ではありません。車だってそうでしょう。各部品の性能がどんなに向上しても、車は車で、本質は変わりません。もし、今ある技術よりうまくパンチを打てる技術があるなら、ぜひ教えてください。こういうことです。技術の向上を目指す場合、人間は二本の腕、二本の脚を持っています。どうしたら一番うまくそれを使えるか。皆同じ走り方をします。それが最高の走り方だからです。誰も後ろ向きに走ったり横走りしたりするようなことはしません。武術も同じです。でも、そういう考え方をする人がいるのです。パンチもベストの形があると見ていい。両手の届く範囲でやることに違いはありません。ブルースも何十ものスタイルに目を付けましたが、それは本当に二次的な役割を果たしただけです。私も変わり続けています。でも私は私のままです。今、自分が持っているものを如何に向上させるかが大事なのです。

――クオリティを高めるということですか?

ウォン 自分が持っているものを高めるのです。お話した通りですよ。皆が走り方を変えないのは、それが最高のやり方になっているからです。ブルース・リーは最高のパンチの打ち方を追求しました。ブルース・リーは自分なりに最高のパンチの打ち方を見つけて、これを上回るパンチ技術というのはまだ見たことがありません。だから私も彼の技術を踏襲しているのです。 色々な武術からパンチやキックの技術を学んで、彼は最高のパンチをものにしたのです、私の考えでは。横走りとかタンブリングがよりベターならそうしますが、そうはならないですよね。彼が生きていたとしても、同じ技術を教えていたでしょう。ただしもっとうまくやれるようにです。 もう一つ。ブルース・リーの言う変化は、人が今持っているものを向上させることです。ブルース・リーの哲学を突き詰めていくと、それはシンブルであることに尽きます。今持っているものをより洗練されたものにしていくのです。本当に洗練されたものはシンプルになります。真の洗練は単純さに行き着くのです。それが彼の哲学です。彼の哲学の目指すところです。トヨタの車だってそうでしょう。40年代の車だって基本構造は変わらないのです。今では性能は格段に向上しましたが、車が空を飛んだり、水中に潜ったりするわけではありません。変化というのは誤解を招きやすいものです。ブルース・リーの言う変化は時間のかかるものです。技術を向上させるために色々な方法を試みるのです。車をより効率的なものにするために変化と工夫が繰り返され、50年代、60年代……と車はより良いものになってきました。ジークンドーも同じです。私自身、初心のころに比べて向上してきたと思いますが、やっていることは基本的には同じなのです。

ラスト・ステージ・オブ・ジークンドー

――ジークンドーは、護身術と考えてもいいのですか?

ウォン どんな武術も護身術となり得るでしょう。技を向上させて身を守る。ジークンドーは自分を高めるものです。私はジークンドーを護身術として教えてはいません。もっと単純に、人を手助けする手段なのです。様々な分野でね。ボクシングは護身術ではなくてスポーツですね。私が習ったジークンドーはそもそもスポーツ的でした。自分の肉体と精神に挑戦するのです。武術はそのつもりがあれば護身術になります。でも私がやってきたことは自分を変えることです。必要があれば護身術として使うこともできますが、私の大きな目的は自分を向上させることです。健康になること、そして人間として成長することです。単なる武術ではありません。私の人生に応用できる哲学なのです。それが私にとってのジークンドーです。指導者としてもそのように教えてきたのです。銃にも猟銃と護身用の銃がありますね。でも、ジークンドーは人を傷つけるための銃ではなく、むしろ猟銃の方だと思います。侵入者があれば護身用に使うこともできるでしょうが。そんなところです。護身術を教えるなら一つのテクニックしか教えません。トラブルが起こりそうな予感がしたら避け、危険な場所は避ける。トラブルを事前に避けることです。危険な場所に危険な時間帯に行くのは愚か者です。

――ブルース・リーはジークンドーを競技スポーツにするつもりはなかったのでしょうか。

ウォン いいえ、なかったですね。ブルース・リーは武術を戦争の技術として捉えていました。トーナメントなどを開くようなスポーツになればルールに縛られます。空手の試合でも禁止事項がありますよね。スポーツのために練習するようになると限られた技しか練習しなくなってしまいます。だから彼自身、トーナメントには出ませんでした。ブルース・リーにトーナメントでの実績がないことを問題にする人がいますが、ブルースにしてみれば、トーナメントで好成績を収めることは優れたファイターの証明ではなく、優れたテクニシャンの証明にしかならなかったのです。

――では、ブルース・リーにとっての最終目標は何だったのでしょうか?

ウォン 彼にとってのゴールは最高の武術家になることだったと思います。彼は映画を武術を表現する場として利用していたと思います。金持ちになることがゴールではなかったはずです。映画は武術を表現し広めるメディアであり、副産物であったと思いますね。

――『ラスト・ステージ・オブ・ジークンドー』という言い方があるようですが、ジークンドーのラスト・ステージとは何でしょう?

ウォン 私の考えでは、ジークンドーは完成していません。しかし彼はもういません。私たちが本当の変化を成し遂げられるかと言えば、おそらくできるのでしょうが、ブルース・リーの哲学を学んだ私の考えでは、変化とは年々向上していくことです。彼の武術や哲学、原理原則に対する理解が次第に深まるにつれ、過去に彼から学んだものがより向上してきました。私は10年、20年前の自分より自分が向上したことを知っています。変化を続けてきたからです。変化を成し遂げるにぱ、まず今持っているものの中身を理解しなければなりません。そうしなければどこをどう向上させればいいのか分かりません。 コーヒーで言えば美味しいコーヒーを淹れるには、その中身、作り方、ディテール、理論などを理解しておくべきです。できれば全てを理解しておきたい。そうでなければ向上するのは困難だからです。  私は7年間フルースーリーに学びましたが、彼から学んだものが本当に解ってくるまでに10年かかりました。幸い、今では彼が書き残した多くの資料を見ることができます。特に最後の時期に彼は、いろいろなものを書き残しました。そういうものを深く研究することで当時、彼が何を考えていたのかが解り、理解が深まります。

――ウォン先生の今後の活動について教えてください。

ウォン ファウンデーションを通して活動していきます。私は特定の道場を持ちませんので、セミナー等を通して各地で教えていく予定です。

――今回は日本でセミナーを開かれたわけですが、今後も海外で教えるご予定がありますか?

ウォン はい。アメリカ、ヨーロッパ、カナダなどで教えます。日本の人達は本当にブルース・リーが好きですね。他の国々の人よりも。とても熱心で非常に感銘を受けました。セミナーの参加者の多くは彼の死後に生まれた世代なのに彼を知っているのです。本当に感動的なことです。

――先生の現在のお住まいは?

ウォン カリフォルニアです。

――今回のセミナーがきっかけで、もっとテッド・ウォン先生に習いたいとカリフォルニアまで習いにいく人が出るかもしれません。日本から習いに来る人がいたら受入れますか?

ウォン 今でもスペインやオーストリア、フィンランドから来た人に教えています。遠くから遥々来てくれた人の労にはプライベートレッスンで報いますよ。

――今日は長い時間どうもありがとうございました。

ウォン どういたしまして(笑)。

(月刊フルコンタクト空手2001年1月号より)